七十五部「水中」

身体感覚で繋がるイメージで
sanaka/佐藤好縈 2026.10.09
誰でも

2024年、京都で展示するのがこわかった。キモノの集合地点のような文化度の高い土地で、それに手を加えた物に対する反応が皆目見当が付かなかった。実際、ふらりと訪れる人たちには、何か手に仕事を持っている方やアカデミックな機関に所属する研究者や教員に類する方、生活に着物が根付いている方が多くいた。

その内のひとりに妄(もう)さんはいた。妄さんの手は青かった。その他の外見では、年齢も性別といった個人的な情報は分からず、藍と共に生きていることは分かった。それともうひとつ、sanakaに心が動いていることが溢れて感じていた。言葉のコミュニケーションではなく、猫が近づいてお腹を見せたり頭をぶつけたり、動物的な会話をしたような印象だった。わたしはわたしで、圧縮するようなその時間を尊いと感じていた。

何かの初めてを目の前に、心のこわいという反応に答え続ける行為に、単純な正当化や美化を与える気はさらさらないけれど、やらなければ立ち上がらない現象が数多くある。失敗や成功と評価するのは、部分的に切り取る行為なのだとわたしは考える。すべて失敗にも成功にもことばの上でできてしまう。ことばは、今まさに行われている固定化。ことばは、過去を生き直して置き直す行為。ことばを反復し過ぎると、小さな印象でしかなかったことばさえ事実となって自分で誤認することも起こる。ことばを使う行為に常に半信半疑。だから仮設的であって欲しいと願った。あなたが読み終えたら、パラパラッと瞬く間に文字が化けてくれたらいいのにと。では、何を信じたらよいのか。それは、わたしたちが赤ちゃんの頃から持ち合わせている直感、豊かになっていく感情、身体の反応だとわたしは思う。それでも仮設的にことばを必要にするのは、わたしたちの理解に時差があるからだ。ことばはやさしい存在でいてほしいと今は願っている。

それから一度、妄さんのいる「る」にお邪魔して、いっしょの時間を過ごした。京都駅から少し外れの位置にある古民家で、谷崎潤一郎氏の陰翳礼讃を思い出されるような薄暗さにわずかに入る自然光が美しい空間だった。妄さんが「衣服再生」ということばを掲げているのを知って驚いた。それは、そのことばをわたしの肩書きにしていた過去があったからだ。知らない者同士が自ずと感覚的に近づいていたのだろう。そして2年経ち、こちらからお願いする形で「る」で妄さんと二人展をすることになった。

2時間の妄さんとの電話で、自然と「水中」という表題が現れた。妄さんが最近まで過ごしていたフランスで海の中に入った体験を聞き、わたしの幼少期に海で過ごした身体感覚がしっかりと繋がった。

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真水から海水の淡い境

光の届かない海底まで

水中、ひとつに繋がる

sanakaのゆらぐ衣服

藤妄の再生する衣服

身体、ひとつに繋がる

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この詩は、川を下り海に入って戻ってくる鮎や鮭、海に行ったきりの鱒、深海に住むリュウグウノツカイまで、異なる種類の生物がひとつの水で繋がっている当たり前の不思議さ。地上でひとつで繋がっているわたしたちは、なかなか繋がってる感触を得られない。さらにはわたしひとりのする行為に影響がないと感じてしまう。バタフライエフェクトのように蝶の羽ばたきが竜巻のきっかけになっているかもしれないのに。

この展示「水中」では、sanakaと藤妄の働きが波紋となって、必要な誰かに届くことを祈っている。それは実際に水の中に潜るときのように、息をたらふく吸って、呼吸を止めて潜る勇気が必要かもしれない。それでも、この水中に入ったらどんな場所よりも呼吸がしやすい場所であるようにしたい。そんな心で、そんな場を拵えていれば、自ずと起こる何かに密やかな期待を寄せている。

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