七十二部「交ざる」
朝、病室のベッドで本を読んでいると、断りなくシャッとカーテンを開けた医師は、開口一番「明日退院で大丈夫ですよ」と言って去っていった。思いのほか、退院が早まった。
プチッ!と緊張の糸が切れる音がして、自分が緊張していたのを知った。不思議と本の先を読む気が失せてしまって、服を畳み、洗面道具の整理を始めた。何も考えないで、終わりのある行為を始めたくなった。
窓の奥には、桜島の煙を呑み込む大きな入道雲がみえる。
わたしは遠方に住む友人と交換日記をしていて、入院する前日に返事をポストに入れた。相手はインスタグラムで、わたしが映画「急に具合が悪くなる」を観たのを知ったらしく、「このやりとりも、いつか何か意味あるのかな?」と書いてあった。
その映画は、原作とは大きく異なり、哲学をパリで学んだ日本人の真理と、日本で文化人類学を学んだフランス人のマリーとの会話を中心に物語が展開していく。(原作は、哲学者と人類学者との往復書簡)
まさか、わたしも急に具合が悪くなるとは思っていなかった。
その映画で印象に残っている言葉がいくつかある。
真理が舞台演出をした一人舞台を公演したシーン。題材は「バザーリア法」。どのようにしてイタリアで精神病院が廃絶していったのかを描く物語。舞台は、観る人と演じる人とが厳密に分かれていない。観客は楽器を渡されて、思い思いのタイミングで音を鳴らす。
劇中、何度も繰り返された「健康な者たちは本当に生きているのか」という問い。「近くでみたら誰もまともではない」という言葉。
健康でありながら何かを欠いた者に向けられた言葉だからこそ病に伏せている今、少しだけ当事者になれた気がする。
ここは病院。映画で描かれた舞台のように医師と患者は交ざらない。退院するその瞬間まで手首にバーコードタグのリストバンドが巻かれ、入院時や手術の前にスーパーマーケットのレジのようにピッ!とされた瞬間、モノになった気分。医師は文学としての身体ではなく科学としての身体として、モノのように捉えていても仕方がないので諦めて、自分はモノを装った。
ひとりひとりの異なる身体に、異なる対応をしなければならないからこそ、8時、12時、18時とチャイムが鳴り、食事が配膳され、構造そのものは画一的なルールになっている。
毎日数名の者が入院と退院を繰り返す大きな循環の中、集中を切らすと、迷い込んだ気がしてくる。
食事以外には、とにかく時間がある。時間は伸び縮みする。痛みのある時間と退屈な時間は進みが悪く、sanakaについて紙とペンで何かを書き出す時間はあっという間に過ぎる。
病室の不自由な空間に居る方が、自由を感じられた瞬間も微かにあった。
でも、早く家で料理を作ったり、猫を愛でたり、展示で会った愉快な人たちのことを友佳子に話す、いつもの生活を取り戻したい。
sanakaは、友佳子とのユニットによる活動で、支える・支えられるといった関係ではなく、二人の能力が発揮される間に発生する現象である。
でも、この瞬間は完全に支えてもらう立場である。それは単に弱者を意味しない。一定期間の現象に過ぎず、逆転することを当然引き受けた上で、安心してベッドに横になっている。
私たちは、誰も思い通りにはならない身体を飼い、心を宿し、いつかは必ず死ぬ存在として、不安定な社会で生きている。
与える・与えられるといった関係でもなく、役割を往来しながら、一歩進んでは二歩下がって進んでいく。
それは、全人類に共通することなのではないだろうか。
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