七十四部「cover」

あたらしい仲間ができた。
sanaka/佐藤好縈 2026.09.12
誰でも

もし「お金を渡すことが目標」と当時に考えていたとすれば、それはただの若気の至りかもしれない。でも、その違和感は今も大きく変わらない。

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23歳の頃、わたしは大島紬を生産する会社に所属していた。糸の染め、織りを一貫して行い、販売拠点としてギャラリーを構えて、2代目のご夫妻を中心に会社が回っていた。ギャラリー横に織り工場があって、織る作業を行うために通う人たちや各地の自宅で織る人たちがいた。そこから車で10分ほどの住宅街の中、会社は在る。会社内は増築を重ねたような入り組んだ作業場所が点在し、25歳以上離れた先輩たちの中に囲まれたわたしは、あっちこっちに行き来しながら大げさな期待の圧力を感じていた。

そんな中、糸の染めや締め機と呼ばれる工程を覚え、とにかく早く技術習得に追われる生活だった。社内の一つにハギレや製品に出来なかった布から服にする部署があり、わたしは仕事終わりにその作業場所によく寄り道をしていた。

きっかけは、彼女が乗る車の座席カバーに掛けられた布に「かわいいですね」と言った些細な出来事だった。その作業場所は、裁縫仕事をずっとやられてきたチコさんの為に用意されたような空間だった。足が不自由な彼女に高さが調整されていて、空間を縦横無尽に思わぬ速度で仕事をする様は格好良かった。わたしにはちっとも不自由には感じれなかったけれど、彼女は「足が痛い」「二階に上がるのは辛いんだよね」と嫌みっぽくもなく話しながらわたしは作業を眺めていた。彼女は障がい者雇用でもなくとても安価な内職だったことを知り、更にわたし以外の作業員が出来高制で、給料制の新人に対して違和感を持ちながら、みんなが笑顔で接していてくれていたを辞める前に知った。

工場を辞めることを決め、互いに別れを惜しみながらまた会いに来る約束をした。わたしは半分冗談で「いつか縫う仕事をお願いしたいので続けていて下さいね」と言い、それからは四年に一度くらいのオリンピックペースで顔を出しては最近縫っているものを見せてもらっていた。

2026年5月、毎年展示している鹿屋市にある珈琲店にチコさんが足を運んでくれた。数年振りの再会でまだ工場で働いているのを知った。わたしの服をみるのは初めてで、着物の布を使って衣服をつくる先輩だと思うと気が引けてしまいそうな気持ちと喜びの感情が交ざった。

現状の工場の話しを聞いたり、昔の話しをしながら、いつものようにsanakaの説明をして、いつものようにいくつか試着をしてもらった。すると彼女が「今の工場をやめようと思うの。佐藤くんの仕事を手伝えないかな?」と言ってくれた。飛び上がるくらい嬉しい気持ちが湧いてくる。「わたしはもう70歳で黒色の糸は見にくいし、あと10年位しか働けないと思うから早く仕事頂戴ね」と急かされもした。

わたしは考えた。誰かを雇うという雇用関係という状態、作家という意味について、社会制度、分からないことが多い。でもわたしの場合、やってから失敗して痂(かさぶた)を分厚くする行為しかできない。友佳子との相談を重ねて、チコさんという新しい仲間ができた。実際、どうやって継続できるかのか未来はよく分からない。お金を渡す為にお金を稼ぎたいという感触がする。でもわたしは至って冷静でそれを目的に据えはしない。sanakaが3人になって、衣服が増えて喜んでもらえる身体や機会の可能性を上げられる事実を眺めて、いつでも誰が増えても欠けても、ひとりひとりの「つくる」や「せいかつ」が守られたらいい。その状態を常に心に宿していたい。

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sanakaで使う布を持って、わたしが初めて仕事の依頼に伺った彼女の作業場の椅子には、あのチコさんお手製の座席カバーが掛けられていた。

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