七十三部「汗染み」

かいわをたやさない営み
sanaka/佐藤好縈 2026.09.04
誰でも

哲学対話「汗染み」

sanaka の二人で汗染みについて話をしました。答えのない会話です。テーブルに座る三人目として過ごして下さい。そして、いつか感じたことを直接お知らせください。

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登場人物

(こ)さとうこうよう

(ゆ)しおみ ゆかこ

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こ)そもそも汗染みってなんで恥ずかしいのかについて哲学対話やってみようか。

ゆ)最初に、永井さんの本やラジオで聴いたことだけど。あれは、一番最初に「哲学対話の三つの約束」みたいな話をしていて。「人の話を最後まで聞くこと」とか「自分の言葉で話すこと」それは、偉い人が言っていたから、こうしなければいけない、ということにしない」とか。あと「まあ、人それぞれだよねで諦めない」の三つだったと思う。

こ)よく覚えてるね。

ゆ)うん。

こ)汗染みについて30分くらい話してみよう。ユカコは汗染みをどう感じる?

ゆ)私は結構、気にしない方だと思う。

自分のものも、他人のものも、あまり気にしない。

ただ「そういう環境にいたんだな」と思う。

でも、例えば自分がその場所でたった一人で汗染みだらけだったら。しかも、コンサートに誰かと一緒にどこかへ行くとか、そういう場面で自分だけ汗染みだらけだったら、恥ずかしいというか避けたいと思うかもしれない。

「可能性があるからこういう服を着て行こう」とか「汗染みが目立たないものを着よう」とか。周囲にとってノイズになる、自分自身が心地よくない、そういうこともある。汗をたくさんかいた状態でいること自体がそもそも心地よくない。だからそっちの意味で言うと、恥ずかしいとは少し違うのかもしれない。

こ)僕はもともと運動部だったから、運動している場所では、汗をかいていること自体が、逆に美化されることもある。頑張っている証拠みたいな記号になる。

その瞬間は、自分の身体に矢印が向いていないんだと思う。「頑張る」「仲間と協力する」とか目的が外にある。そういう環境のなかで結果として汗をかく。だから、汗そのものに意識が向かない。

一方で、コンサートみたいな場所では、「自分だけ汗をかいている」とか汗が「緊張している人」や「焦っている人」の記号になってしまうことがある。

不快感もあるし、恥ずかしさもある。そこでは矢印が自分に向いている。

汗染みを気にしている状態って、一人でいる感じがする。

孤独というほどではないけど、自分一人の内省に閉じているような状態。

例えば、友達四人くらいで一緒に行っていても、「自分、汗かいてるわ」と気になった瞬間に、少し孤独になる。そういう特徴があるのかな?と考えながら話していた。

ゆ)広告のことを考えると、日本では汗に対して「防御すること」を謳っているものがすごく多い。脇汗パッドのついたインナーとか、脇汗を外に出さないためのものとか。

服自体も「汗染みが目立ちにくい生地です」ということが価値として売られている。

そのものの存在が「汗染みは出さないことができる」というメッセージが社会に流れる。

すると、それをしていない人は「自己管理ができていない人」という方向に見られる可能性もある。そういう社会やコミュニティの中にいたら汗染みを恥ずかしいと思うこともあるのかもしれない。

広告が謳ってるメッセージって、ある意味で「世間」のような感じがする。

「みんな汗を気にしますよね」とか「匂いは気になりますよね」とか。

それが当たり前の前提として存在している。

海外の人が日本について話しているコンテンツで「日本人は体臭が少ない」という話を見ることもある。だからこそ、少しでも「ある」人に対して反応が強くなる、ということもあるのかなと思ったりする。広告のメッセージってやっぱり世間の感覚に近い。

学生時代のことを思い出すと、制汗剤を使わないといけないような空気もあった。

部活のなかでも、「使う?」みたいに言われたり。優しさとして使わせてくれる場合もあるんだけど、思春期のそのやりとりが少しトラウマのように残ることもあると思う。

こ)僕自身がそうだったというより、そういう形で植えつけられてしまうことがある。

メディアの力もそうだし、「脇汗」や「ワキガ」という言葉、身体の特徴を気軽に言葉にしてしまうことがある。ラグビー部の先輩で「あいつと組み合うのは嫌だよな」みたいなことを言われた人を思い出した。そういう小さな事実や体験が「自分もそうなるんじゃないか」という怖さにつながっていく。正しく理解しないまま、怖さだけが広がっていく。「そうされてしまうかもしれない」という怖さになってしまうよね。

ゆ)汗染みの話と匂いの話は違うんだけど、汗から体臭に連想がつながってしまっている部分もある気がする。自分が臭いんじゃないかと疑心暗鬼になることもある。

でも、匂いの感じ方って人によって違うし、数値だけでは測れない。柔軟剤などでも香りに敏感な人や体質的に使えない人もいる。でも、そういうことは前提としてあまり考慮されない。「努力していない」とか「ケアしていない」と思われるのも違う。

ある程度の自分を「標準」や「普通」としてしまう。それまでにからかわれた経験がなかったとしても、誰かに少し指摘されただけで、本当は普通の範囲なのに「自分は異常なんじゃないか」と思って、過剰にケアしてしまう人もいるかもしれない。そういうところに資本主義が入ってくることにも、少し違和感がある。「守ってあげますよ」という形をしているけど、それを個人がずっと買い続けていく。

こ)脇を拭くものやスプレーを使い続けることで、身体がどういう結果になるか実際にはよくわからない。美容的なものでも、「毛穴をこうすればなくなります」とか、どんどん個人の身体に負担や責任が向かっていく。「それも個人に負担させるんだ」という感じがする。

ゆ)YouTuberがワキガの治療をした、という動画を見たことがある。

一度失敗したという話だった。本来は診察をして、病気として診断されるようなことを、専門的に判断できる人ではない人が、「自分はそうだ」と決めてしまう。そういう情報から治療に向かうこともある。その動画を見て、「今までそういう情報にアクセスできなかったけど、自分も悩んでいた」という人が救われることもある。一方で「自分も手術をします」という人も出てくる。

こ)そんな手術があることをあまり知らなかった。正直、僕たち二人ともあまり気にしない方だから、参考にならないかもしれないけど。でも、鏡を見た瞬間に過去の経験がフラッシュバックするとかあるかもしれない。

だから、家を出るときに「汗をかくかもしれない」と考えて、着替えを持って行く。

荷物が増える。外出すること自体がおっくうになる。そういうことも起こる。

いじめの構造と少し似ている。なぜいじめた人ではなく、いじめられた人の方に負担が向かうのか。なぜ病院に行ったり、着替えを持ったり、荷物を増やしたりする負担が、その人個人に集約されていくのか。そういう疑問はあらゆる場面にあると思う。どうやったら減っていくんだろう。運動場では、みんなが汗をかいているから、誰も気にならないのに

ゆ)年配の人が若い人に「汗すごいね」「若いわね」と言うこともある。

でも、言われた側が思春期だったら、「なんでそんなこと言うの」と感じるかもしれない。

こ)言葉の文脈は、どちらにもなり得る。

たった今、汗をかいているというだけなのに、それを「汗かき」という固定化された言葉にすると記号化されていく。「ただ今、汗をかいている」という状態が「よく汗をかく人」という固定された印象になってしまう。でも、「今、汗をかいている」という見え方だけなら流れの一つの状態でしかない。そう認識できることが大切なのかも。

ゆ)「汗かき」という言葉から連想されるものもある。

幼さとか、子どもは基本的に汗をかいている、というイメージ。

あるいは、焦っている人、緊張している人。

少しネガティブな精神状態のときに汗をかく、というイメージ。

そういうものが、悪口に近い形で使われたり、受け取られたりする。

一方で、「代謝がいい」という言い換えもある。

でも、それなら汗をかけない人は「代謝が悪い」のか、ということにもなる。

俳優は汗までコントロールしている、みたいな話もあるけど、本来、普通の人が汗を完全にコントロールするなんて難しい。汗は不可抗力というか、身体の作用だから。

違いがあって当然なのに、均一化されたイメージになっていることがおかしいのかもしれない。

こ)もし「汗染みはおかしい」と思っている人が目の前にいたら、何て言うんだろう。

ゆ)いつもこういう話のとき、少し的外れなことを言うんだけど、「大丈夫だよ」と思わなくてもいいのかもしれない。自分に矢印が向いているからこそ、他人にもそれを強要してしまう場面がある。この場合は、そうなりやすいのかなと思う。

もちろん、単純に気持ち悪いとか、不快だという感覚もある。

自分の場合は、汗によって痒くなったりするから。身体が連動する。

家族だったら、汗をかいていることを見て、「大丈夫?」と心配することもある。

本来、汗はただの身体のサインでもある。体温が上がっていて、それを下げようとしている。だから、他の人が暑くない場所で汗をかいているなら、「どうしたの?」と聞くことが正しい場合もある。でも、それが恥ずかしいこととして受け取られてしまう場合がある。

そこは少し難しい。

こ)最近は、異常気象の不自然さがある。

外がすごく暑かったり、施設の中が寒すぎたり、その温度差も身体への負担になる。

携帯扇風機が流行っているのも、そういうことと関係していると思う。

必要だから広がっている。

この間、愛知県に行ったときも、みんな持って歩いていた。

カバンにファンをぶら下げている人もたくさんいた。

もう一時的なブームというより「今はこうしておくもの」という感じになっている。

それをすごく感じた。

ゆ)ただ、年配の人がエアコンを嫌って扇風機だけを使っていて、体温調節が難しくなって倒れてしまう、という話もある。

表面に風を当てることだけで対処し続けることが、本当に身体にとっていいのか。

一時的な対処としてはいいけど、それだけに頼ると問題が出てくることもあるんじゃないかと思う。

こ)この間、電車の中で、健康的な汗のかき方には見えない人がいた。

本当に汗が吹き出しているような状態だった。もちろん僕は医者ではないから、その異常性は完全に主観なんだけど。

家の冷房が効いた場所から、外へ出て、携帯ファンを当てながら歩いて、電車に乗る。

急激な寒暖差がある環境の変化がある。

その人を見て、少し心配になる汗で。だから、汗だけの問題ではなくて。

人間がつくった環境や、生活習慣の問題もある。運動してるかとか。

そういうものが重なって悪循環のような環境に暮らしているんじゃないかと感じたよ。

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約30分、二人で「汗染み」について話をしました。結論が出たわけではありません。それでも誰とだって日常のそこはかとなきに目を向けてささいな会話を絶やさないことが大切だと感じています。

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哲学者の使命とは、特権的な言葉を振りかざして議論にケリをつけることではない。人々が日常的に行っている多様で雑多な「会話の場」を守り、言葉遣いをケアすることで、その会話をどこまでも続けられるようにすることである。ー 哲学者リチャード・ローティ

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