エッセイ[ other clothes (あれ以外の衣服)]vol.1
20歳くらいの頃、わたしは愛知県名古屋市にいました。当時、ギャルやギャル男が集まる観覧車が備わったサンシャインビルの近くには、夜になれば電灯と欲情でギラギラして多くの若者がクラブに集まっていました。わたしはそこからほど近いコンビニで深夜働き、昼は衣服の販売員をして、週末は服飾学校に通う生活をしていました。帰り道、横たわった同い年くらいの人や散乱するゴミをすり抜けるように、次の予定に向かって原付を走らせてた頃の失って始まった話。服飾学校に通うまでは、古着を解体してパターンをひいたり、布を感覚的に折り曲げて縫って組み立てたりなどして服をつくっていました。その頃の服が一枚だけ現在も残っていて、今それをみると可愛げな熱意が帯びていて、このまま突き進めばよかったのにってどうしても感じてしまいます。基礎的な部分をすっ飛ばしてきたわたしは「学校」を通る必要性を勝手に脅迫的に感じていました。
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あるとき、大阪に住む高校時代の後輩から電話がかかってきて「やっぱり服飾あきらめられなくて、ダブルスクールで学校に通うことにしたんだ。佐藤君もどうかなと思って」と名古屋支店の存在を教えてくれました。「いつか一緒にブランドやれたらいいね」と淡い期待の夕方、何もない部屋から外の駐車場を眺めて直立で電話をする、少し興奮するわたしの身体。後日、その服飾学校のオープンスクールに行くと、受付で年齢がわたしより少し上くらいの女性が笑顔で対応してくれました。わたし自身緊張していたのか、がむしゃらだったのか、いつの間にか学費を借金するために契約書を書くボールペンを持って座っていました。無事審査が通って喜んでいましたが、今思えば借金ができてうれしいって感覚は目標に近づいたと誤解してしまっていたような気がします。
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そこで西田恭衣先生と出会いました。西田先生は本業はオーダーのウエディングドレスを作る傍らファッションデザインの講師として、デザイン画や制作方法などを教えてもらっていました。決して物わかりの良い生徒ではないわたしは、人前に立ってデザインの発表もろくにできず、周囲から「もっと自信もって声出したら?」など言われて失念する日々でした。出来のわるい者ほどかわいいと言うと折り合いが付くかどうか分かりませんが、ちょうどアシスタントが欲しかったと、次第に先生は自身の仕事を手伝わせてくれるようになりました。わたしとしては、ずっと衣服はどう在るといいのか考えてきたのですが、大量生産大量消費の時代に衣服をつくって生きていくのに半信半疑で、先生の手伝いをしながら衣服と折り合いがつけたらと考えていました。
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わたしは学校を卒業しても、特に何かできるようになって自信がついた訳もなく、変わらない生活を送っていました。でもその頃に「サスティナブル」と云う言葉と出会います。職場にあった何でもない資料の一文でした。この言葉を検索しても「持続可能性」と出るだけで、当時のGoogleにはわたしの理解できる資料は殆どありませんでした。でも、「サスティナブル」をテーマにした衣服はしっくりきて、初めての感触だったのを覚えています。そのタイミングで祖母が体調を崩したのを契機に九州に戻って生活したい気持ちが湧いてきました。住む場所も何も決めず、衣服のお直しや縫製工場の求人を探していたところ、キモノの大島紬や薩摩紬を織る企業をみつけました。ハッとしたわたしは〝そういえば、キモノって雑巾まで使い続けるってめちゃくちゃサスティナブルじゃん〟と思い、すぐに問い合わせして、転職を決めてしまいました。
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そのことを西田先生に電話で伝えると「ファッションの世界は、東京に行ってバイヤーやスタイリストにみてもらって、服や人柄を気に入ってもらって、少しづつ広げていく世界だよ。もう諦めるってことね」とプツン!と切られ、着信拒否にされて縁を切られてしまいました。今ではそれは本当にそうだったことも応援してくれていた裏返しの反応だったことも分かります。というか、自分勝手で失礼なことをしてしまって、本当に感謝しかありません。
ただそのときのわたしも今のわたしもファッションの世界に興味を持つことができませんでした。王族御用達のファッションブランドやドメスティックブランド、ユニクロやZARAよりも。すっごく個人的で、地方性や風土の影響があって、中央値から外れた値に在る衣服たちのことをわたしは知りたいのです。
それを「あれ以外の衣服(アザークローズ)」と仮称して、収集していくエッセイを書き進めていこうとわたしは決めました。「あれ以外の衣服」の研究を始めます。
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