エッセイ[other clothes(あれ以外の衣服)]vol.9
現在、sanakaの制作拠点の横、ハフにて展示中のseriさん。「ほんの一瞬を、」と題して、ひとりひとりの心底安心する居所や瞬間を問い続けている。その合間、わたしはseriさんと衣服について「かいわ」した。
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佐藤)服を自分で選んだのって覚えてる?
人間って衣服を着させられる時期があるじゃない?
seri)自分では覚えてないけど、絶対にこれを着るって三歳のときには言ってたらしいけど。おっきくなるにつれてそれも薄くなってきたかな。
佐藤)自分で選ぶの早いね。興味がなくなってきた?
seri)お下がりでいい、在りものでいいってなった。
佐藤)他人をみて、かっこいいかわいいとおもうことある?
seri)おもうけど、それはそれとしてって感じ。
(他人が着てるのを)みてたいなっておもう。
佐藤)みてたいとじぶんが着たいが一致しない?
seri)しないみたい。
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佐藤)seriは、制服を着る学校と通信制の高校も経験してるよね。
通信は、みんな私服?
seri)私服ですけど、じぶんで好きな制服を買ってきて着てる人もちらほらいました。制服、好きなんだなーって。
佐藤)え!制服を選ぶ人もいるんだ。ちらほらって、十人に一人くらい?
seri)そうですね。
佐藤)学校って「空気」があるよね。
もし半分以上の人が制服が着てたら、制服買わなきゃなーっておもう?
seri)おもわないですね。
佐藤)流されないね。ぜんぜん服は買わない?
seri)買わないですね。機能性を求めて日除けの上着を買ったかな。好きで買ったのは三年くらい前ですかね。
佐藤)どんなの買ったの?
seri)Tシャツで好きなイラストが入ってるやつ。
ピンと来ないと買わない。
佐藤)三歳の頃は選んでたって、ピンってくるのが多かったってことなのかな?
seri)いや「絶対ピンクがいい」とか、そのとき着たい色を言ってた気がする。
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佐藤)在りものってお母さんやお婆ちゃんの服とか?
seri)もらってきた服もありますね。
佐藤)優位的には、在りものと機能性ってことかな。
嫌な服ってある?スカートをはいてるのみたことないかも。
seri)スカートは動きにくいから、あんまり。鏡で自分を自分でみたときがちがうなって思う。サイズがぴったりがすきじゃなくて着なくなったのもあります。
佐藤)自分で自分をみてちがう気がするって、大切な感覚な気がするね。じぶんっぽいってなんだろうね。seriは上が大きめで下がすっきりとしたストレートなスタイリングが多いと思うけど、いつからかな?
seri)どうだろう。高学年くらい?容姿を気にし始めた頃ぐらい。わたしの場合は、わたしの容姿を嫌いになり始めました。ある瞬間からガラっと嫌いになったと、はっきり覚えてます。
佐藤)ある瞬間を覚えてるんだね。
seri)小三の運動会が終わったあと。容姿というか、中身も。食も歪み始めたのもそのへんからかな。
佐藤)なにがあったの?
seri)家族が写真とか撮ってるじゃないですか。それをみて。こども特有の肌の質感とかしっとりしてて、違和感があって。
佐藤)じぶんの身体に違和感を感じ始めて、でも母親や祖母はかわいいかわいいって言葉をくれたんじゃないの?
seri)家族全員そうなんだけど、目おかしんじゃないかなっておもっちゃう。
佐藤)笑 受け入れてなかったんだね。
seri)その瞬間から受け入れてなかったかも。
今も自分をみるのまだ多少苦手かも。
佐藤)衣服やメイクとか自分を化かす方法はやろうとおもわなかった?
seri)おもわなかったですね。
佐藤)じぶんの気に入るじぶんになるってどういうことなんだろうね。たとえば、絵を描いているじぶんとか働いているじぶんとか場面における気に入ったじぶんっていない?
seri)いないね。おかねつかいたくないかな。
佐藤)seriの中でおかねをつかう理由になってないってことよね。顔を変える手術を選ぶ人もいてさ。わたしは、目つき悪いって昔から言われてて上司に眼鏡を強要されたこともあったけど、二重にしたいっておもわないもんな。
seri)別にじぶんを気に入らなくていいなっておもう。
佐藤)多くのひとが憧れのひとのような格好をして、じぶんのらしさに目を向けなくて結果的に格好がついていってないってこともあるから、それもいいね。seriのファッションになってるとおもう。イラストが好きで買ったTシャツを着たら気分がいいって感覚ある?
seri)あるかも。
佐藤)そのくらいのことだとおもうんだよね。たとえば、汗を吸ってるくれてるだとか日傘を差して日陰ができて涼しめるような機能的な衣服が機能している状態って気分が少し上がるから。実は服を楽しめてるんじゃないかな。
seri)そうかも。
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「身嗜み」は他人に向けてするもの、「ファッション」は自身に向けてするものとわたしは学びましたが本当にそうでしょうか?
忌野清志郎氏の告別式、甲本ヒロト氏が革ジャン革パンを着て弔辞を読みました。「礼服を着ないなんてもってのほかだ!なんて無礼者なんだ!」と云う言葉をわたしはまだ耳にしていません。甲本ヒロト氏にとって革ジャン革パンが「身嗜み」として認識されているし、礼服を着るのは忌野清志郎氏に失礼な気がする感触がわたしはあります。
話を変えます。
「奢り奢られ論争」、SNS上で女性はデートの為にメイクや服装にお金をかけているのだから男性は食事代を奢るべきだ」といった意見が拡散。炎上。「男性が奢ることが当然とする考えは、男女平等に逆行している」と反論。議論は白熱していました。ここでのわたしの意見は「誰と食事をするかに寄るだろ」ですが、「ファッション」が他人の為にするものに移行している認識が窺える根拠として取り上げました。
二つの極端な事例、強まった個性と多くの認識は「身嗜み」に成り得るし、自分本位でなく他者に要求が強まると「ファッション」に成り得るようです。たとえば、服に「気を使わない」ことさえ強まれば、それはそれであなたの「ファッション」であり、周囲の認識が強まれば「身嗜み」と矛盾が生じる訳です。本来「身嗜み」は共通の答えをみんなで大切にする現象であり、「ファッション」は自分の答えを自分で大切にする現象とわたしは考えています。
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