エッセイ[other clothes(あれ以外の衣服)]vol.3
「この街の赤いコートは灰に触れない」
わたしたちがこの世に生まれ落ちると、オムツを当てられ、産着を着させられ、親からあてがわれたものを身に付けていきます。ひとは、空気や水が不可欠な余りに重要なことを忘れてしまうように、長いあいだ与えられてきた衣服の中から選んでいることに気付くのは意外と難しい。なぜならば、衣服の認識とはファッションのことであったり、身嗜みのことであったりと非常に曖昧な存在で、毎日自分自身で着用するから自分で選んでいると錯覚しやすいのではないかと考えています。
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鹿児島で暮らし始めて驚いたのは、幼稚園から短大生まで「制服」があることです。私服を着る機会が少ないと云うのは、あてがわれたものからはみ出ることの困難さを意味します。制服は貧富を隠す機能があるので、決して否定しませんが、個人の選択する力を保留し続けることになります。「気に入った赤いコートがあったのだけど、鹿児島では着れないから茶色にした」これと似た話を鹿児島に来てよく聞きました。当時、わたしが住み始めた街の空気に個性が認められにくかったのかもしれません。現在はどうでしょうか?
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たとえば〝日本人だから着物を着よう〟と考え、つよい意志をもって試みてもそれが発生しにくい理由は三つあります。生活環境や社会認識が変わらなければならない。そして自然と楽しんで選択する多くの人たちが起こす空気感が街に無いから不自然となります。それは、赤いコートが着づらいと云う理由と一致します。日本人は、約百五十年で着物から洋服の生活に変わったのですから、多くの人々は環境や認識、空気で選択肢が変わるといえます。もし着物を着る生活に戻すには、百五十年くらいかかって当然だとわたしは考えています。
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更にとやかく言えば、わたしの考えるコーディネートとは、冷蔵庫の余り物で味噌汁をつくるのと似ています。今や、コンビニやスーパーで買うカップの味噌汁でお湯を注げば完成するようなものばかりでつまらなく感じています。味噌と出汁と具材との組み合わせが無限に合って、家独自の味があるようにわたしはそのひと独自の味噌汁が飲みたい(コーディネートがみたい)です。鹿児島に限らず全人類に求めたいのですが、毎日たのしく味噌汁を作って下さい。これはたとえ話ではなく、本当に味噌汁を作ってください。そして、同じ感覚で服を選んでみてください。それを多くの人に祈っていますが、大抵の場合わたしの願いは空気を帯びる事なく沈殿するでしょう。なぜならば、身体的に家事を獲得することと衣服を選ぶことの一致が多くの人に理解しづらいのをわたしは理解しています。嗚呼、あなたのおいしいものとかっこいいものはずっと正しいというのに。
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