六十四部「センサー取付のススメ」

「差別」を再解釈して、距離を置く術
sanaka/佐藤好縈 2026.02.08
誰でも

あの、白状しますね。わたしはかねてより「差別反対」という言葉に違和感がありました。もちろん、肯定さえする気も起きないのは大前提なのはご承知頂きたい。まず、この違和感は選挙期間以外で感じることは非常に少ない。といっても差別を反対する者がいなくなる訳ではなく、おそらく発言しにくい日常の空気に戻るだけなのである。差別する者がいないとは思わない。でも、誰も差別を肯定しているとは思えないのは、わたしはお花畑なのだろうか。心の中の極めて幼稚なわたしが「差別する人を差別するってそんなの無限地獄じゃんか」と言う声が聞こえてきて止まない。次第に疑惑が高まってきたのを感じていた。それは、本当の所でわたしは「差別」を理解をできないのかもしれない。根本的に実際に何を反対しているのか、何を指し示しているのかわたしのみが分かっていないのかもしれない。それを誰にずっと打ち明ける気にもなれないまま、誰かを傷つける言葉を口にしたくないまま、それが今になってしまった。ここにきて打ち明けるのはじんわりと恥ずかしい。転機は、突然訪れた。それはまるで日常的にランニングをしている父親が運動会で大怪我せずに走り切るような話で、最近になって読み物を吸収する力が付いたわたしは、小難しい論文を読み漁るほどになった。そして「差別する側の視点からの差別論」というものに行き着いた。論文なのに口語体で書かれた文章は明快だった。冬の朝方に冷んやりと沈殿する靄と共に幼稚な浅い考えがすうっと消えていき、ぱっと晴れていく体感を得たのです。

わたしの頭の中で、論文の要点は二つに纏まっていきました。

それは、差別とは「告発によって発覚する」性質があるということ。問題点としては、潜在的な差別意識が行動や言動に繋がって差別が発生していても、加害行為になってからしか認識はできない。差別発言を受けた当事者がそれを認めてしまえば、沈黙としても共犯者となって差別的な空気は肥大する可能性がある。ちゃんと水を差さないといけない。

もうひとつは、「社会的なカテゴリー」によって差別発言が発生する性質があるということ。たとえば、同じ社会的なカテゴリーに属している人達の中でも、積極的に運動している人に対して反感をもってしまう可能性があります。カテゴリー化によって存在を認めたとしても一方でカテゴリー内は不自由で、更なるカテゴライズが生まれていけば非常に曖昧になってしまい、わかりにくくなる懸念がある。

わたしにとって差別とは、「特定の誰か(社会的カテゴリーに属する者)」を無意識の内に不在とした発言。もしくは潜在的に排除した感覚であると改めることに成功した。

古代ギリシアの哲学者ソクラテスが唱えた「無知の知(自分の無知を自覚することこそが真の知識に至る道である)」という概念同様に自分の知らない存在がいることを自覚すること、自覚的であることが差別から一定の距離をもっていられる術なのではないかという考えに至ることができたのです。

「不在の無知」というセンサーの取付をお勧めしたい。

誰もが無意識にカテゴライズをして不在者を生み、悪意なく傷付けてしまう恐れを積極的に意識するセンサーの取付を。

わたしはあらゆる存在を受容していきたい。差別的な言動を行い、傷つけてしまう無知で幼稚な人さえも受容しなければ、争いを避けることができない。ただし、戦う気は一切ない。ただただ存在を認めたい。その存在を認めながら無意識にしろ悪意があるにしろ、向き合わなければ社会はどうもうまく回転していかないのだ。インターネット上に差別発言を残ってしまうような時代で、これからの若者たちはどうやってバランス感覚を得るのだろうと心配になった。最近は不思議な気持ちがあって、お恥ずかしい話を重ね重ねするのだが、目の前にやってくる「あなた」というカテゴリーでわたしなりの術を用いて、しあわせにできるような気がしている。そんな脳天お花畑のわたしは命をかけてお花畑を守っていきたいとわりと本気に思っている。

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