六十六部「物語を養う」
わたしは、小説を読んで生きてこなかった。ドラマや映画も二十歳を越えてから見始めた。映像文化として、物語という作品と触れる機会は少なかった。幼いときは、多くの人が知る物語を知らないことに負い目に感じていた部分があったかもしれない。今は、分かる。誰かと会話をする中で、何処に生きて何が好きで嫌いで話を重ねる中で、その人の名前をタイトルにした本を書き上げてきた。会う度に書き加えられて更新されていく一冊の本を、何十冊も何百冊にもなって増えてきた。頭に在る本棚はいっぱいいっぱいで、最近は記憶する時間が追いついていないのが現状である。
わたしたちは、物語を養って生きている。
たとえば、わたしが両親のいない中で育った経験さえも悲観的に捉えた解釈をするか、限られた選択肢から希望を導き出した喜劇的に捉えた解釈にするかは、いつだってこちらの自由なのである。その頃、離れて暮らしていた兄二人がどう感じていたかは分からず、兄二人の物語があり、それがわたしに影響するとは思えない別のメロディーラインが走っている。
国の物語や政治の物語も勝者の歴史が残るように、読ませたい物語をメディアが語ったり、個人的なメディアで批判的に語ることで結果的に権威に力を付与してしまったり、現代では物語を語る場所が増え、解釈は複雑に入り組んでしまっているようにわたしは感じる。
わたしたちは、物語を養って生きている。
力を持ち過ぎてしまうものは、解釈を変えなければ飼い慣らせることができない。力が弱っているものこそ物語の解釈を変えて、勇気をもって話の展開点をつくらなければいけない。ひとりひとりの生活が、ひとつひとつの物語が大きな本棚となっている世界で。もしこの世界を誰かのひとつの物語にする必要性があるのなら、わたしはつまらない。
「その水になじめない魚だけが、その水について考え続ける」
このフレーズは、しばしば哲学や社会学の文脈で使用される表現。例えば、「口の立つやつが勝つってことでいいのか(著者頭木弘樹氏)」で語られたり、作家デヴィッド・フォスター・ウォレスが「これは水だ(This is water)」というスピーチの中で、「魚は普段水を意識しない」と語る。
この水とは、物語の解釈がもたらすわたしたちの空気そのもの。みための綺麗な水がいいとは思わない。どことなく淀んでいなければ、小さな微生物は呼吸する場所を失ってしまう。だからといって、全てそうなればいいとも思わない。均衡し続ければいい。そうやってただ物語は何処までも展開していく。それを悲劇か喜劇にするかはいつもわたしの自由であなたの自由なのだ。
すでに登録済みの方は こちら