十八部 「光を遮る」
展示が始まって二日目が終わり、友人とラーメンを食べに行くことになった。二度目のこの土地で何も知らず、直感的に選んだラーメン屋は当たりだった。大きなメインの通りから外れて何も無いような場所にぽつんと在った。古びた看板、外壁に「6周年」を祝う看板が貼ってあり平然と時空が歪んでいた。車がたくさん並び、無理矢理こさえたと言わんばかりの第二駐車場があって、そこに停めた。すぐに入れそうに無いので期待をせず、訪ねるとやはり「少し待って欲しい」と言われ、公園とか見つかるまで散歩するかとなんとなくなった。周囲に何も無いようにみえたのは空腹のせいか、二軒隣にアメリカの国旗が飾ってある古着屋があった。こういった場合、定休日や営業時間外で入れないが通例のようだが、閉店まで残り三十分を切った所だった。
扉の先にはTシャツを丁寧に畳んでいる店主がいて、開口一番ハキハキとした口調で「良い古着はないんで、さらっとみてってくださいねー!」と謙虚さが行きすぎた言葉で出迎えられた。大量のTシャツはバンド系、映画系、ジョーク系などのジャンルごとで縦に積まれていて1990年代、2000年代の古着が並んでいる様子だった。店主の丁寧さ、行きすぎた謙虚さ、破格の値段はユニクロと対等になる為、SNSはやっていない発言、優しく尖っている態度が伝わってくる。面白い。でも、長居はできない。私たちにはラーメン屋からの電話がくるまでの短い時間、集中して服を探した。(その間、店主は針と糸で古いTシャツを修理していた。)彼は古着をブームとして捉えず、自分自身が通ってきた経験値とファストファッションに移行する現代社会と共に暮らすその土地の方々が突然服が欲しくなったときの買いやすさを想った価格で、古着への愛を惜しげもなくこぼしていた。私は、白いペインターパンツを試着をして持って帰ることにした。
ラーメンを食べながら「行きすぎた謙虚さ」について考えていた。この土地で出会ったアーティストとは名乗らない感性豊かなアーティストたちも、自身の活動のことを「趣味」と称す。趣味も十分良いと思うのに、それぞれの真ん中に大切なものを横にズラしたような言い方が少し気になった。営みのある中心的な領域では「趣味」と称するか「行きすぎた謙虚さ」がなければバランスが取りづらいとしたら不自由の中で咲く花壇の花のような気がした。でも同時に自然に咲いた花が本当に良いのかどうかも分からない。社会という枠組み「花壇」があって、システムがあるから水や栄養を与えられる。自然界にそんな安定したシステムはないから、結局は自分がどう在りたいか、どう関わりたいかだろうと思う。
翌朝5時、ひぐらしが鳴いていた。洗濯や洗い物、昼食のおにぎりをせっせと拵えて、白のペインターパンツの裾上げをしながら思う。花は表現したいなんて思っていなくて、ただただ咲く。それを偶然か必然か見た人がまるで自分のために咲いてくれたような錯覚が作用する。それがいい。それがいいから私は展示という行為を「咲く」動作とする。勝手に役に立てればいい。他人にも自分でも誰にでも花への光を遮らないところに立っていたいけど「趣味」と称す方もまた影響し合う距離で暮らす人たちの光を遮らないようにしてるのだろうと分かった。せめて、満遍なく光がみんなに行き届くことを願う。
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