三部「空洞」
友人に子が生まれ、お宮参りにsanakaを着ていきたいと連絡を受けた。それらしい服たちを連れて、友人の家と中間地点、美山の駐車場で落ち合った。
少しの間だけ育児休暇を取り、父となった彼は「贅沢のような日々だ」と言った。どうしようもできない子の訴えを受けて、彼は無力感が滲むのを味わいながら感慨深い気持ちに浸っていた。それを贅沢と指すのだろう。もっと話をしたかったが残り時間を奪う訳にもいかない。再会の約束をして別れた。
ふと一人となった駐車場。
目の前にずっと行ってみたかったカフェ兼ギャラリーのお店があったので入った。店内には〝読書を愉しみながら美山時間を過ごして欲しい〟と願いが書かれた添え書きがあり、静の美しさが空間に広がっている。やさしい音楽も響く。良い。
一点一点の作品をじわりじわり眺めながら、コーヒーを一杯飲んで帰ることにした。
実は少し前から店主に対して、気になっていたことが心にある。質問をするかどうか迷いながら深い苦味を口で感じつつ、ほかのお客さんがいないのを確認をして意を決した。
「あのーー唐突なんですが、絵も描かれますか?宮崎のアトリエ根々で展示をされていたような、、」「あーーあの方は同姓同名で、漢字がひと文字だけ違うんですよ。」「それはとんだ失礼をしてしまいました!」を皮切りに二人は話をした。誰かが来店する迄の間、たくさんの話をした。
十年前、シンガーソングライターとして訪れた鹿児島を気に入って、カフェ兼木工作家として活動をし始めた店主。今はうたっていないのはなぜだろう。
「当時は心の鬱屈とした感情や反骨的な動機があったけれど、今家族ができて幸せで。子と一緒に歌う30秒くらいの曲が完璧だったりするから。その曲を肉付けして、CDに焼いてってまでなれないんです」と教えてくれた。
空洞のような足りていない部分があって、その一部を満たそうとする衝動が生まれないと「行動」に繋がることはないのだろうか。僕自身、sanakaの活動で九州各地を巡っているのは〝(社会に於ける)空虚を埋める〟感覚があるからだ。
お客さんがやってきて、二人はそそくさと場を離れた。簡単な挨拶を済ませて、お店を出た。そして、そのときの会話のことをずっと考えている。
満ち足りてるからこその幸福な表現活動は無いのだろうか。それはおそらく〝なんで分かってくれないんだ〟のような欲動ではなく、誰か特別な人に用意されたもののお裾分けのような感覚に近い表現なんだと思う。sanakaは社会の空虚を埋めようとしつつ、生まれた子たちをお裾分けを渡してるそんな感覚。
子は、すげえんだ。めちゃくちゃすげぇんだ。
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