十三部「エンディング」
sanakaをある種の運動の類として見立てたとき、「文化」と云うキーワードは色濃くなる。
文化とはなんぞや。
ー
先月、友人の彫刻家に誘われて、ゴッタンの製作者に会いに宮崎県都城市へ向かった。
ゴッタンとは木製の三味線である。かつて南九州のエリアでは家を建築した残りの端材で大工の手でつくられて、お祝いであったり、宴会で使用したり、宮崎や鹿児島の庶民にとって親しみの深い楽器だった。
その筈だった。
50年程前にゴッタンの制作者は滅びてしまった。
再起させた本人は今は老人ホームにおり、唯一の一番弟子が仕事の傍らで制作を行なっている。復活したとはいえ首の皮一枚残っているような状況だ。
会いに行ってしみじみ感じたのは、誰かにとっての当たり前になってる状況、日常になれなくなったら途端に滅びてしまう。それは理であり、必然であり、無常だ。どんな物事も不要となれば、滅びる。
sanakaの展示に来てくれた60歳の方が教えてくた。「私は一生の仕事になると思って和裁を学んだんだけど、子どもが生まれてすぐ位だったかな?和裁用のミシンができたって聞いたの。そしたら、どんどん中国で着物が作られるようになって。日本でも工場ができ始めて、分業が進んでね。私が何十年もかけて全てを覚えた事を昨日入って来たような新人さんが一部の作業できると知って、みんな和裁をやめていったよ。それで私もやめたの。」
文化はテクノロジーによって進化することができたのか、滅びたのか、新たな文化を生んだのかは分からない。
ぼく自身が何がしたいかは分かるし、これからどんな未来に進んでいくのかもおおよそ分かる。
30年後、どうなっていたいか。文化の一端をそっと支えているか。烏滸がましくあって耳が痒くなるが「生きたなあ」と腹の底から味わってぼくは死にたい。
すでに登録済みの方は こちら