十二部「ネイティブ」
とある青年と出会った。
デジタルリテラシーの低い僕は頷きながら、知識量に感服しつつも経験からくる言葉ではないから手放しで喜べず、返答に困ってしまっていた。褒めて貰える筈の常套句に肩外しにあったかのような表情で僕を眺めていた。
とある年長者と出会った。
会話を重ねていると「時間はあるのか?」と云い、ぼくは「ある」と答えた。やけにタイヤに泥のついたアウディに乗車して、山奥の表札もない神社や遺跡を巡った。「此処もネイティブアメリカンのような土着と呼ばれる人たちがいて、塗り替えられていった歴史がある」とゆで万十を頬張りながら教えてくれた。
とある自分と出会った。
ぼくの中には、生物ホモサピエンスとしての自分と人間社会を生き抜くものとしての自分がいる。分ければもっと存在する自分。
生物として、食べる・寝る・排泄・交配はやめないし、行き過ぎた視点だけれどそれだけで十分だろうと思う瞬間はある。それはホモサピエンスが兼ね備えている想像力や社会をつくるという要素も無視できないからで、もし本当に高度な生物だったらば、社会や自然界全体を見通した佇まいを個として選択すべきだろうと感じることに起因する。
もし本当に神様がいたとすれば、自分自身を神様と名乗るような神様は大した奴ではないし、人の形をしてることさえ怪しんだ方がいいし、神様は遥かに偉大だ。
生まれた環境は、誰も選べない
環境をつくることならば、今すぐできる
本来であれば、それが政治だろう
日本で生まれ育ち、ネイティブとして
できることはあるんだろうか
それさえも幻想に過ぎないのだろうか
誰が導いているのだろうか
時代は何処へ向かうのか
手の鳴る方になのか
手を鳴らす方なのか
はてさて
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